アニメの快楽 -自立するオープニングアニメーションに見る「映像的快感」の正体-
脚注
注1:「東大オタク学講座」p.86
注2:「タイトルの魔力」p.175-176
『例えば、ヴァン・ドンゲンの描いたブリジット・バルドーの肖像は、バルドーのゆえに価値がある、というよりは、ヴァン・ドンゲンの作品として価値がある、と見られるだろう。しかし、これは近代的な藝術哲学を前提とする議論である。そもそも、画像はそのモデルと一つのものと見られるのが、自然なあり方だった。バルドーの肖像画は何よりもまず、《バルドーの絵》であり、これを姿の見えていない作者と結びつけて《ヴァン・ドンゲンの作品》と見るのは、相当にソフィスティケートされた受け取り方である。』
注3:「オタク学入門」p.11
注4:「知の編集工学」p.76-77
『映画を見ているとき、私たちは最初はかなり注意深くなりすぎている。画面に出てくるさまざまな人物の特徴を覚えようとしたり、背景の部屋に置いてあるモノに注意を向けすぎたり、登場人物のちょっとした動作に引きこまれすぎたりする。筋がつかめなくて、かなり疲れることもある。ところが、五分か十分かするうちに、私たちの理解の幅が一挙にしぼられて、たちまち映画の世界に没入してしまう。そうなれば、あとは夢中に見ていけばよい。
これは、映画をつくる側が観客の文節力を計算しているからだ。黒沢明の言葉でいえば、それが<編集>である。逆にいえば、私たちの方では最初の五分か十分で猛烈な勢いで分節調整をさせられているのである。画面情報の相互測定をさせられている。そしてそのうち、突如として「映画の文法」を了解してしまうのだ。』
注5:「知の編集工学」p.257
注6:「定本物語消費論」p.11-12
『アニメーションの分野ではこれを<世界観>と呼んでいる。例えば、「機動戦士ガンダム」に譬えるなら、(中略)一話ないし一シリーズでは、アムロなりシャアなりのキャラクターを主人公とした表向きの物語が描かれている。一般の視聴者はこの<表向きの物語>のみを見ているのである。ところが、アニメの作り手たちはこうした一回性の物語のみを作っているわけではない。「ガンダム」なら主人公たちの生きている時代、場所、国家間の関係、歴史、生活風俗、登場人物それぞれの個人史、彼らの人間関係の秩序、あるいはロボットにしても、デザインなり機能なりをこの時代の科学力にてらしあわせたあ場合の整合性、といった一話分のエピソードの中では描かれない細かな<設定>が無数に用意されているのが常なのだ。(中略)一つ一つの<設定>は全体として大きな秩序、統一体を作り上げていることが理想であり、<設定>が積分された一つの全体を<世界観>とアニメーションの分野では呼びならわしている。とすると、具体的な一話なり一シリーズなりのアニメ番組で描かれた表向きのドラマは、<世界観>という全体から見た時、この大きな世界の中で任意の一人の人間を主人公に選び、その彼の周囲に起きた一定期間内の出来事を切り取っただけのモノに過ぎなくなる。主人公を別の人間に置きかえるだけで、そこには無数のドラマが理論的には存在し得ることにもなる。』
注7:実写映画では一片の映像を「ショット」、ショットとショットの繋ぎ目を「カット」と呼ぶが、アニメーションの世界では「ショット」を「カット」と呼称するのが一般的である。
注8:「怪傑蒸気探偵団」や、「機動警察パトレイバー」のOPが例として挙げられる。
注9:「定本物語消費論」p.14
『消費されているのは、一つ一つの<ドラマ>や<モノ>ではなく、その背後に隠されていたはずの<システム>そのものなのである。しかしシステム(=大きな物語)そのものを売るわけにはいかないので、その一つの断面である一話分のドラマや一つの断片としての<モノ>を見せかけに消費してもらう。このような事態をぼくは「物語消費」と名付けたい。』
注10:同上 p.19 「歌舞伎事典」(服部幸雄編/平凡社)における池上文男の記述の引用から。
注11:同上 p.19
注12:本来は複数の動作が同調することを表す言葉だが、ここでは楽曲の「きっかけ」に映像のカット割りや要素の動きなどが合致することを指す用語として用いている。
注13:「視覚論」p.91
注14: 同上 p.105
クラウスは「マトリクス」とは空間にも時間にも規定されない概念であるとして、それを根拠に「リズム」がモダニズムにおける視覚の「形式」を崩壊させるものだと述べているのだが、ジェイの「形式自体を批判したというよりも、むしろ別の形式(つまり、音楽という時間的芸術には以前からあった形式)を導入したのではないでしょうか。(中略)だとすれば、形式と対立するリズムという観点からではなく、別のタイプの形式としてのリズムという観点から、視覚的リズムを概念化することができるのではないでしょうか」という反論に対し、「マトリクス」の概念を生んだジャン=フランソワ・リオタールはその概念から時間的なものを排除することでモダニズムによる回収を回避したと述べるに留まっており、完全な論破に至っていない。しかもクラウスは、自らの主張を裏付けるために引用した作品について論じる中で「(ビートは)時間的・空間的に作用する(同 p.89)」「時間的なものが欲望のビートとして写像されている(同 p.87)」と断言しており、明らかな矛盾がそこには生じてしまっている。
注15:「動物化するポストモダン」p.57
注16:同上 p.76-78
注17:「映画にとって音とは何か」p.209
注18:同上 p.137
注19:同上 p.147
注20:「機動警察パトレイバー2 the Movie」(1993/小説版1994)
押井は登場人物に「この街では誰もが神様みたいなもんさ。居ながらにしてその目で見その手で触れることのできぬあらゆる現実を知る」と語らせ、「モニターの向こうに戦争を押し込め」どこか遠い国の出来事としてしか捉えない日本人を批判させている。アニメ版は押井守監督、伊藤和典脚本。上記引用は押井による小説版「TOKYO WAR」より。
注21:「特命リサーチ200X」におけるインタビュー等による。
注22:ロラン・バルトの言説とも関連するところである。注25参照。
注23:Production I.G.所属のアニメーター井上俊之が若手アニメーターを集めて開いている勉強会「井上塾」にゲスト参加した際のコメント。
「美術では、アルカイスムというのがありますね?アルカイスムというのは『古拙』という字を書くんですが。(中略)芸術が始まった時というのは,素朴さを持っていて、それはそれで面白いんですよ。それは『古く拙い』と言っているけれど、下らないと言う事とは全然違うんですね。それでなくては出せないような味がちやんと出ている。その次に古典主義、クラシシズムって言うのが来るんですね。音楽でも、クラシックというものがあるでしょう?最も円満な形で成し遂げられたというものですね。その次に来るのはマニエリスムです。マニエリスムと言うのは。マニエラ=技巧ですから、普通の言葉で言うと技巧主義ですか。そして、バロック。バロックというのは歪んだ真珠と言う意味なんですけども、音楽でよく使われますね。バロックになると、ゴチャゴチャして来て、感情なんかは大袈裟に表現されるようになってきます。(中略)初めは素朴に作っていく。それを完成させる。しかし、完成させた後にでて来た人はどうしたらいいか?次は、もっと細かい所まで突っ込むしかなくなってくる。円満に作る為に切り捨てていた部分を拡大して行くんですよ。バロックの時代になると、それでも足りなくてですね、表現過多なものにして行くんですよ。で、そこで一応行き詰まるんですね(笑)。で、また、そういう事が繰り返されるんですよね。(中略)それと同じ様にですね、アニメーションも、そういうのがあると思うんですよ。」
注24:「美術手帖別冊 アニメスタイル 第1号」p.93
庵野秀明へのインタビューにおける庵野のコメントより。記録的ヒットとなった「もののけ姫」を無視するわけにはいかないので規定を変更したのだという。「もののけ姫」と規定変更の明確な関連を裏付ける資料はないが、業界では公然の事実とされている事柄のようだ。さらには、作品賞の対象にアニメが含まれていなかったのは、「となりのトトロ」に賞を与えたくないがためにそのような規定としたためである、という情報もあるが未確認である。
注25:「テクストの快楽」p.36-37
2002
SVE