●オープニングアニメーションとその自立
「オープニングアニメーション(以下OP)」とは、テレビアニメやOVAなどのアニメ作品の冒頭で主題歌にのせてスタッフクレジットとともに流される、一連のタイトルバック映像のことである。OPは、エンディングアニメーション(以下ED)とともに本編とは別個の独立した映像として制作され、シリーズものの作品では毎回同じ映像が繰り返し使用されるのが普通だ。番組内番組のように極端に限られた枠で放映されるものを除けば、現行のテレビアニメ作品でOP/EDを伴わないものは存在しない。日本におけるテレビアニメーションの過去の歴史においても、ほとんど全ての作品にOP/EDが用意されてきたが、このOP/EDをめぐる一つの興味深い現象がある。
昨今、インターネットとデジタル複製技術の普及に伴い、違法なコンテンツ配信が問題となっている。MP3による音楽ファイルのやりとりが取り上げられることが多いが、ブロードバンド・ネットワーク時代の到来と高効率のファイル圧縮フォーマットの登場も相まって、音楽のみならず動画コンテンツについても、違法コピーがネット上に氾濫しているのが現状である。アニメもまたそうした現象とは無縁ではないが、注目すべきは、アニメ作品のOP/EDのみをアップロードしているサイトの存在だ。例えば最新ヒット曲のMP3が違法にやりとりされるのは、聴きたい曲を無償で聴けることにメリットが感じられるからである。しかし、アニメ作品の本編とは別個の映像であるOP/EDのみが公開されていても、「観たいアニメが無償で観られる」わけではもちろんない。そこでは最初から、本編ではなくOP/EDが求められているのである。
この状況はなにもインターネットに限らない。マニアの中には、OP/EDのみを数十本集めたオリジナルビデオを自分で編集して制作している人もいる。これを単純に「コレクション行為」という枠組みで捉えることは可能だし、ネットワーク上のやりとりを一種の「蕩尽行為」として説明することも出来るだろう。しかし、アニメ作品のOP/EDが、作品本編とは無関係に単体の映像作品として、それ自体が一つの商品として成立してしまっているという側面を見逃すことは出来ない。OP/EDのみを収録したパッケージソフトが、正規商品として複数制作され実際に流通していることは、OP/EDの商品価値を証明するものであると言える。
特にOPは作品の顔となる部分ということもあり、しばしばそのためだけに優れたディレクターが招かれ技術力の高い作画スタッフを揃えて制作されるため、一分半前後という短い時間の中に各種の要素が非常に高密度で凝縮されたアニメ映像となっているが場合が多い。楽曲と映像のコンビネーションという標準的なOPの形態は容易にミュージックビデオを連想させるが、ミュージックビデオが新しい映像表現を生み出す土壌の一つとなってきたように、OPもまた新しいアニメ表現を生み出す場としての可能性を孕んでいる。テレビシリーズにおいてはスケジュールや予算の制限から複雑なアニメ表現を盛り込むことが難しい作品本編に比べ、特別なスケジュールが組まれることの多いOPは自由度が高く、ダイナミックな動きや緻密な作画に趣向を凝らす余裕がある。例えば、天才と言われるアニメーター金田伊功によるアニメートの一つの頂点とされているのが、「銀河旋風ブライガー」(1981)のOPである(
注1)ことなどもそれを裏付けている。
本書ではこの、本来は作品に付随するタイトル・クレジットムービーとしての性格が強いOPが、作品本編とは切り離され独自に単体で鑑賞・消費されているという現状に注目する。良くできた予告編が時に映画本編以上に物語や世界観の深みを感じさせるように、良くできたOPは作品の本編以上に価値のある映像と成り得る。では何をもってOPは単体の映像作品として成立し得ているのか。OPがテレビアニメに対して果たしている役割やその意味、具体的な表現の分析を通じて、テレビアニメの傾向や本質、そして「映像的快感」の在り方を実証していくことが出来るのではないだろうか。
●オープニングアニメーションとスタッフクレジット
ところで、クレジットムービーとしてのOP/EDでは、OPでメインスタッフを、EDではキャストやその他のスタッフをクレジットするのが一般的だ。しかし、作品にクレジットを添付するような習慣が一般化したのは、それほど古いことではないらしい。佐々木健一によれば、肖像画や宗教画が全てであった時代の絵画においては、誰が描いたものかよりも、誰を(何を)描いた絵であるかの方が重視されたという(
注2)。基本デザインは一人のデザイナーが手がけるものの、実際の映像においては複数のスタッフによって分担作業で作画されるという手法上、極めて匿名的な画像にならざるをえないアニメのキャラクターについても同様のことが言えるだろう。アニメのスタッフは常に日陰の存在であることを宿命づけられているのだ。
一方で70年代後半からのアニメブームにおいて、熱心なアニメファンの登場により、初めてスタッフの違いによる作画のクセを見抜き、作品自体に留まらず作品の制作現場にも興味の対象を拡げていくというマニアックな鑑賞姿勢が生まれてくる。家庭用ビデオデッキもまだなかった時代に、アニメファンはスタッフクレジットをノートに書き写すなどの地道な努力によって作画マンごとの傾向を分析していった(
注3)というが、ここにいたって初めてスタッフクレジットは意味を持ったと言える。いわゆる「オタク」がマニアックな関心を注ぐまで、アニメの作り手は個性を持たない完全な職人でしかなかった。主な視聴者であった子供たちは画面のヒーローやロボットに魅せられたのであって、それを作り出した人間がいることなど考えもしなかったであろう。職人の技術を切磋琢磨する取り組みは行われていただろうが、そこに作家性を見出す視線が存在しなかったのだ。言ってみればアニメは、子供が楽しむための実用品でしかなかった。アニメが描くものが今ほど複雑多岐に渡っていなかったことも理由の一つに挙げられる。やがて「宇宙戦艦ヤマト」(1974)や「機動戦士ガンダム」(1979)の登場により、アニメファンは重厚な物語に心酔し、洗練された作画に驚嘆した。監督や演出家はそのイマジネーションに、作画スタッフはその独創的な作画技術に、それぞれ作家性を認められる時代が来たのである。
しかし今なお、そうした視線は一部のマニアからのものに限られる。例えば映画のスタッフロールは、黒い画面にクレジットだけが流れるものがほとんどだが、クレジットが始まると席を立ってしまう観客の姿は映画館では当たり前である。一般の映画ですらそうなのだから、本来子供向けであったアニメにおいて、しかもテレビでクレジット表記を成立させることは非常に難しい。OP/EDの映像は、そうした必要性から生まれたものであったとも言える。事実、子供向けの劇場用アニメ作品では、必ずクレジットに本編の見せ場を再編集した映像などがかぶせられている。あるいは宮崎駿のように作家性が広く評価されている作家の場合でも、評価されるのは作品の監督だけであって、クレジットされるその他大勢のスタッフが注目を浴びることはほとんどない。
視聴者を飽きさせずなおかつ自らの存在を主張するOP/EDにおけるクレジット表記は、スタッフの涙ぐましい苦肉の策であったのかも知れない。しかしOPが単体の映像作品として受容されるとき、そこではまたしてもクレジットは注目されることはない。ある時期以降、テレビアニメ作品がビデオパッケージ化される際に、ノンクレジット版のOP/EDが同時収録されるということがしばしば行われている。それはまさしくOPが一つの作品として認められた証でもあると同時に、スタッフの存在を顧みない視聴者の姿勢の現れでもある。監督名をOPの一部として画面一杯に表示させた「新世紀エヴァンゲリオン」(1995)のOPや、画面の構成要素として配置を綿密に計算された「少女革命ウテナ」(1997)のOPにおけるクレジットなどは、そうした状況に対するスタッフのせめてもの反抗なのかも知れない。
《「新世紀エヴァンゲリオン」OPにおける監督名表記》
画面一杯に極太明朝体で表示されるのみならず、主役ロボットにかき消されるなど、演出面でも単なるクレジット表示の域を出ている。
《「少女革命ウテナ」OPにおけるクレジットのレイアウト》
スタッフクレジットが巧妙にレイアウトされ、画面の中にその居場所を確保していることが分かるだろう。キャラクターのビジュアルを邪魔しないための配慮とも言えるが、言い換えればクレジットが存在してもアニメ映像としての価値が変動しないということである。比較のために「機動戦士ガンダム」の例を右下に示した。主人公の顔がアップになるいわば一つの「見せ場」だが、ど真ん中にクレジットが配置されており、いささか見苦しい。「ウテナ」では、このように見せ場にクレジットが重なるようなことは一切ない。