アニメの快楽 -自立するオープニングアニメーションに見る「映像的快感」の正体-


 第二章:物語論から見るオープニングアニメーション

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●物語の断片化とオープニングアニメーション
 アニメやドラマ、映画などを観ている時、我々は最初の五分か十分の間、登場人物の関係など作品世界の決まり事=文法を把握しようと努力する。松岡正剛はそれを「分節調整」という言葉で説明している(注4)が、多かれ少なかれ、映像による物語表現を鑑賞する際にはそうした作業を避けて通ることはできない。
 現行のテレビアニメには、基本となるフォーマットが存在する。それは「OP→CM→Aパート(本編前半)→CM→Bパート(本編後半)→CM→ED→次回予告→CM=30分」という流れである(付録資料1参照)。地上波で放映されているアニメは、稀にCMのはさみ方が変則的なものもあるが、原則として全てこの形式にのっとっている。これはもちろん、より効率よくCMを挟んでいくための編成であり、例えば上の例では「CM→ED→次回予告」としたが、これが「ED→CM→次回予告」となることはあっても、「ED→次回予告→CM」となることはまずない。次回予告まで観終えた視聴者はその後のCMには見向きもしないからだ。次回予告の前後におまけコーナーのようなものが用意されることがあるのも、同様の理由による。WOWOWのノンスクランブル枠で放映された「今、そこにいる僕」(1999)ではA・Bパート間のCMを廃しているが、これは本来有料チャンネルであるWOWOWだからこそ出来た編成であると言えよう。CM収入によって成り立っている地上波のテレビ番組にとって、排除できないCMによって本編が寸断されることは避けられぬ宿命なのだ。この本編の断片化という現象は、OPの在り方にも深く関係している。
 例えば映画は、二時間一本勝負である。二時間というゆとりある枠の中で作品の流れを作り、観客を導いていく余裕がある。対してテレビアニメは、30分一本勝負。CMを除けば、実質23分強で一話分のストーリーを展開しなければならない。例えば1クールの短いシリーズとして編成された場合でもトータルでは一般的な映画の長さを遙かに超えるものの、放映される段階では13話に分断されさらにその各回もそれぞれ断片化を免れ得ない。この特異なフォーマットにおいては、映画ほど作品の「流れ」を作るのは容易ではない。しかも断片化した各話は、原則として1週間というブランクを挟んで鑑賞されることになるため、そのブランクを何らかの形で補完する必要も生じてくる。

 映画が作品の冒頭数分間を使って観客に「画面情報の相互測定」を行わせているという松岡の指摘に対し、テレビアニメにおいて視聴者がそれを行うのは、他ならぬOPの映像によってなのである。アニメのOPは、大体が何らかの形で作品のダイジェスト的な映像によって、作品を構成する要素を一通り提示するような流れになっている。すなわち作品についての情報をあらかじめパッケージとして視聴者に提供することで、視聴者に作品の「文法」を了解させるという役割を、アニメのOPは担っているのだ。
 本編とは別個の映像としてOPを用意している映画もあるが、アニメのOPほど作品の構成要素に踏み込んだ映像となっているものは少ない。それは前述のような、映画とテレビアニメのフォーマットの違いに起因している。断片化した情報を、断片的なままで受け取らなくては成らないテレビアニメの視聴者が作品の流れを把握するのは極めて困難な作業だ。その厳しい状況の中で、シリーズ全編を通してひとつの文法を維持していくための手段として、OPは用いられている。シリーズものではなく、各話完結形式ととっているテレビアニメ作品の場合も同様だ。実質23分強しかない持ち時間の中で効率よく視聴者に「画面情報の相互測定」をさせるには、作品の基本要素を凝縮して提示するOPのような映像が不可欠なのである。
 現実に存在するイメージを切り取って見せる実写映画とは根本的に異なり、提示される情報が全てであるアニメの世界においては、必要な情報が過不足なく提示されることが何よりも重要だ。それをいかに確実に行うかがある意味でのアニメの完成度に直結しているとも言え、その効率的な実現のためにOPが存在するのである。同時にOPの映像自体にもまた、その「情報の提示」を効果的に行うための工夫が凝らされており、OPにおける情報の提示を分析することによって、テレビアニメの表現手法の一端が明らかになるだろう。そして作品世界についての情報が適切に提示された映像であるという性質は、OPが単体の映像作品として成立していることと無関係ではない。

●「物語消費」とオープニングアニメーション
 では、OPが提示する情報とは何だろうか。松岡正剛は「物語」を構成する要素として、「ワールドモデル・ストーリー・シーン・キャラクター・ナレーター」の五つを挙げている(注5)。この類型による「物語」の分析は大衆文化的な作品にその対象を限らなくてはならないが、テレビアニメを語る場合においては十分有効であろう。この松岡の分類に従えば、アニメ作品のOPが提示するのは五つの要素のうちキャラクターとワールドモデルという二つの「情報」である。なぜなら、残りのストーリー・シーン・ナレーターの三つは、キャラクターとワールドモデルが規定されて初めて成立するものだからだ。また大塚英志は、物語の本質がストーリーやシーンにではなくキャラクターとワールドモデルにあるという事実を、「<世界>−<趣向>」というモデルによって指摘している(注6)。この指摘は同時に別の問題も提起するのであるが、それについては後述することにして、キャラクターとワールドモデルからなる<世界観>を提示することが作品の「文法」を示すことと同義であることをとりあえず確認しておこう。ワールドモデルとその中のキャラクターを特定することで、その周辺にストーリーやその具体的な形としてのシーンが生まれてくる。ナレーターの存在は映画メディアにおいて否定的に捉えられるようだが、それぞれのシーンで物語の進行役を担うキャラクターが擬似的なナレーターとして機能すると考えれば説明が可能だ。ではこれら要素の提示が実際のOPではどのように行われているのだろうか。テレビアニメ「ONE PIECE」(1999〜)の第一期OPを例に検証していくことにする。

《「ONE PIECE」第一期OP》
 「ONE PIECE」のOPは37カット(注7)から成るが、その中から主なカットを順に分析していこう。  このOPの特徴の一つは、冒頭にナレーションが含まれていることだ。『富・名声・力、この世の全てを手に入れた男、海賊王ゴールドロジャー。彼の死に際に放った一言は、人々を海へ駆り立てた。「俺の財宝か?欲しけりゃくれてやる。探せ!この世の全てをそこに置いてきた!」男たちは、グランドラインを目指し、夢を追い続ける。世はまさに、大海賊時代!』  こうしたナレーションは、多数派ではないものの幾つものOPに同様の表現が見られ(注8)、そのまま<世界観>の説明となっていることは一目瞭然である。極めて直接的なこうした表現が用いられるのは、「ONE PIECE」のように、作品世界の歴史的背景を解説する場合に限られるようだ。そして、歴史的背景の解説であることを映像的に裏付けるため、画面では巻物状のイラストの上に静止画を配置して、ナレーションのイメージを映像化している。さらに、海へと繰り出していく船の群を描き、「大海賊時代」を端的に表現し、大まかな世界観が提示されることになる。
 続く一連のカットでは、主要キャラクター5人が提示される。明らかに中心的存在として登場するのが、主人公の少年ルフィである。ここで、ルフィの腕が異常に伸張するという異常な描写が見られるが、これはルフィが「悪魔の実」と呼ばれる特殊な実を食べ、体をゴム状に変形させることが可能になったという設定を説明するものである。また、その能力を用いて陸から海上の船へ乗り移るというシークエンスは、ルフィの破天荒なキャラクターと、ひいてはそのような若干常軌を逸した行為や事象が当たり前のように起こりうる世界であることを示している。
 ここでタイトル。このOPでは、冒頭とラストの二回を含め、合計三回もタイトルが表示される。繰り返しのイメージによってこれが「ONE PIECE」というタイトルが示す概念に包括される物語であることが印象づけられる。「ONE PIECE」とは、ナレーションで語られる「富・名声・力=この世の全て」を体現する宝物のことであり、この宝を探し求めての旅が「ONE PIECE」の主題である。次のカットでは、海原を行く小さな海賊船の周りを異形の生物が悠々と泳いでおり、この世界がファンタジーの要素を多分に含んでいることが示される。ルフィらがこれらの生物に対し何の驚きも見せていないが、同時に視聴者もまた、こうした異形のものの出現に慣らされていくのだ。
 続くカットは大変象徴的だ。突如画面はディフォルメされ、この世界の地図の上を海賊船のイメージがコミカルに進んでいく映像である。地図がすなわち世界を把握するための手がかりであることは言うまでもない。メインタイトルの背景とともに、地図という世界を客観的に眺めたイメージが示されることで、「海賊」の広範に渡る行動範囲に慣らされていく。それは「航海」というこの作品の根幹をなす要素とも密接に結びつくものである。
 一転してアクションシーン。五人のメインキャラクターそれぞれの得意技が披露され、各キャラクターの特色が明確に描き分けられている。同時にライバルや敵を相手に戦いを繰り返していくことが、海賊の世界における一般的な生き方の規範であることが把握できる。
 フラッシュで挿入されるのは、作中で登場する強力な敵対キャラクターたちである。彼らの登場が予告されているだけでなく、次々と現れる強敵を倒すことで先へ進んでいく物語であることが示唆されている。
 主人公ルフィと同じ麦わら帽子の男。ルフィが「海賊王」を目指すきっかけとなったキャラクターであり、ルフィにとっては特別な想いのある人物であることが、彼から譲り受けた麦わら帽子を映像上一つのものとして演出してしまうことで強調される二人の連帯感からわかる。また、悪役は背景が黒なのに対してこのキャラクターだけ背景が白いことも、大変わかりやすい。
 そして航海を続ける船。その船が画面奥へと向かっているのは、当然視聴者との目線を揃えるためである。その方向はこれから始まる物語の行方でもあり、主人公らの旅の行方でもある。

 テレビアニメのような「物語ソフト」においては、<世界観>という背後の「システム=大きな物語」を売る代わりにその一つの断面であるドラマの断片を消費させているという大塚の「物語消費」の概念(注9)を、この「ONE PIECE」のOPは全面的に裏付けている。「大きな物語」を消費するという行為を大塚は、「ひとが<物語>を欲するのは<物語>を通じて自分を取り囲む<世界>を理解するモデルだからである」と説明した。すなわち、人々を取り巻く世界を規定する<大きな物語>が失われた時代に、サブカルチャーをはじめとする創られた物語がその代替物として機能している状況を指摘したもので、大塚は「ビックリマン」や「ファイブスター物語」を例に挙げて「物語としての歴史=偽史」こそが「物語消費」の対象であると述べている。OP冒頭のナレーションが語っているのははまさにこの「物語としての歴史=偽史」であって、物語ソフトしての作品の性格を端的に象徴するものとなっていると言えよう。
 作品世界の歴史はキャラクターにとっての世界のイメージであり、主人公による世界の認識イメージから周辺のキャラクター、さらに外縁をとりまくその他のキャラクターを提示し、キャラクターのビジョンである「"ONE PIECE"を目指す旅」をビジュアル化して見せるというOPの流れに沿って、視聴者の視点は作品世界へと同化され、その上で本編の物語に対峙させられることになるのである。

 以上のように、OPには「物語消費」型の消費システムを機能させるものとしての性格を見いだすことができるわけだが、ここでもう一つ考え合わせておくべきことがある。物語の本質がストーリーやシーンにではなく<世界観>を構築するキャラクターとワールドモデルの<設定>にあるという事実を踏まえれば、それらを効率よく提示する映像であるOPは物語の本質を含んでおり、OPの段階で既に物語を把握するための文法のみならず、一つの物語が形成されているのではないかという疑問である。仮にそうであるとすれば、OPを作品本編と切り離して単体の映像作品として鑑賞する姿勢に、一つの根拠を与えるものだ。そしてこれこそが「物語消費論」の主旨である重大な問題提起である。
 「物語消費論」によれば、キャラクターとワールドモデルの二大要素からなる<世界観>は、歌舞伎用語で言う「世界」にあたり、その「世界」において繰り広げられるドラマやエピソードは同じく「趣向」に符合する。そして歌舞伎や人形浄瑠璃において「作者は役者や観客に共通の知識となっている<世界>の上に新しく案出した<趣向>を脚色したり、複数の<世界>を混合したりして作品を作る」のである(注10)。もちろん歌舞伎や浄瑠璃が大衆文化の中心であった時代の作品の在り方をそのままアニメの構造をに当てはめることは出来ない。しかし<世界>─<趣向>の関係に等しい関係をテレビアニメの中に容易に見出すことが出来るのは事実である。そこで大塚は、アニメやマンガの世界観を拝借して独自の物語を展開してみせる同人誌の在り方に注目し、「<世界>─<趣向>という軸の中で考えた時、(中略)作品を判断する基準として、どれがオリジナルであるかはもはや無意味となり、ただ<趣向>の優劣のみが有効となってきてしまう」と述べている(注11)。
 すなわち、<世界>が与えられた場合、そこに物語を創出することは作品の「送り手」のみに許される行為ではもはやなくなる。かくして、作品の<世界>を提示する映像と向き合う視聴者は、<世界>のみを抽出し独自の<趣向>を生み出すことが可能になる。とは言え、OPの映像を鑑賞するという行為の限りにあっては、視聴者は同人誌を創作する場合のように独自の<趣向>を作り出すまでには至らない。そこで行われるのはあくまでも用意されたOPの映像を「解釈」することであって、その解釈がOPを単体の映像作品として成立させるのだ。つまり視聴者が生み出す「物語」は、実際には創造するものではなくその存在を感じた上で「再構築」するものなのである。
 それをもっともよく説明するものとしては「物語消費」の概念よりも、あまりにも有名なあのエイゼンシュタインの「モンタージュ理論」がむしろ相応しいだろう。連続する二つのショットは、ショット自体が本来持つ意味に関わらずその連続性の中に一つの文脈を構成する、という「モンタージュ理論」の基本的な思想はまさしくOPが物語性を手に入れる過程に等しい。例えばあるキャラクターが提示された後に不敵な表情を浮かべる悪人顔のキャラクターのイメージを挿入するだけで、そこにはもう「主人公対行く手を阻むライバル」という構図が成立してしまう。その構図を読み取るのがOPの映像を「解釈」するということであり、またOPがあくまでも本編の<趣向>にのっとって「モンタージュ」された映像である以上、視聴者はその<趣向>から逸脱するもしくはその<趣向>に反する物語を夢想することを否定はされないものの、OPの映像に向き合う限りその<趣向>の枠に規定される。
 併せて、作品の既知性についても踏まえておかなければならないだろう。近代的な形式の枠内に留まる限り、物語ソフトは「全く新しい物語」を語ることは出来ない。まさに文字通り「趣向を変える」ことで見せかけの新たな物語を描いてみせるのである。その趣向の向こうに横たわる真の物語は、視聴者にとっては少なからず既知の物語として存在する。視聴者がOPから再構成する物語とは、過去の物語体験の上に成り立つものであって、OPの自立はその前提を必要とするのである。モンタージュ理論がソビエトにおいて、歌舞伎や浄瑠璃が江戸時代において、その時代の大衆が共有する記憶や思想を前提に成り立っていたように、アニメのOPそして本編もまた、現代の日本におけるサブカルチャーの消費層が持つ共通概念を基盤としているのだ。すなわちそこでは、ディティールの細密度が異なる以外、OPと作品本編の物語のどちらもが、同じ<趣向>に属する表向きの物語として、大塚の言う「一つの断面」として機能する。それ故、作品本編を把握するための凡例として作られたOPが、転じて本編と等価な映像として成立し、さらには本編の代替物として受容されるに至る流れがここに生まれるのである。
 「良くできた予告編が時に映画本編以上に物語や世界観の深みを感じさせる」と先に記した。人は時に、詳細に語られない部分を敢えて白日の下に晒すより、語られないままにしておくことを選ぶ。全てを明らかにしてしまうことは、隠れた部分に思いを馳せたり、想像を巡らせる楽しみを奪うことでもある。OPを単体で鑑賞する姿勢とは、本編の<趣向>に規定されながらもそれをOPに暗示させるにとどめておくことで、本編が体現しうる以上の「大きな物語」を欲求し消費していくやり方なのである。そこでは本編が尊重されつつ必要とされないままに、視聴者は充足を得る。同人誌の分野のように作品を自家生産し消費していく形態とは若干異なるものの、それは多分に「物語消費」的であり「物語ソフト」ビジネスにとっては脅威である。


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2002 SVE