アニメの快楽 -自立するオープニングアニメーションに見る「映像的快感」の正体-


 第三章:視覚的刺激としてのオープニングアニメーション

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●視覚的な刺激と音楽的なリズム
 OPをビデオクリップ的な映像として捉える場合、そこに欠かせないものとしてサウンドトラックがある。なんらかの楽曲を伴わないOPもごくまれには存在するが、実質的には皆無に等しい。そしていくつかのOPを見てみれば、すぐに楽曲とOPの映像との間の密接な関係に気付くだろう。楽曲中、小節の最初の一拍や歌詞のフレーズの頭、歯切れ良いリズムを刻むメロディーの一音一音のように、強いインパクトをもつポイントのことを「きっかけ」と呼ぶことがあるが、カット割りやキャラクターの動作の表現などは、そのほとんど全てがそうした「きっかけ」に合わせる形で制作されている。
 例えばバレエやダンス、シンクロナイズドスイミングがそうであるように、楽曲に合わせた動きは追求すべき「美」の一形態と捉えられる。そして楽曲中の「きっかけ」は、例えば「四拍子」のような音楽的規則に強く影響される。規則とはすなわち秩序であり、秩序に基づく音楽のタイミングに人物の動きや映像のカット割りを一致させることは、本来秩序だっていないものに秩序を与えるということに他ならない。  なぜ人間は秩序あるものに美を感じるのか。それは、秩序が不自然だからだ。自然の仕組みを分析・把握し思うがままにコントロールしたいという欲望は、ヨーロッパを起源とする全ての現代科学の源であり、我々の感性を支配している。音楽もまた例外でないことは周知の事実だが、であるならば楽曲に合わせた映像もまた、同様に秩序をよしとする思想の中に位置づけられるものであると言える。秩序は美であり、美は快楽である。そして、OPの映像は楽曲との「シンクロ」(注12)を追求していくことになる。
 視覚的なものは、その根底に「マトリクス」として存在する「リズム・ビート・パルス」の秩序によって支配されうる、とロザリンド・クラウスは述べている(注13)。クラウスの主張は「リズム〜」がモダニズムにおける視覚の形式を崩壊させるものであるとする点にあるが、形式自体の批判というよりもむしろ別の、音楽という時間的芸術には以前からあった形式の導入と捉えることで、視覚的なものにおける「リズム〜」の支配を説明できるのではないかと指摘したマーティン・ジェイに対し、クラウスは明確な回答を提示できていないばかりかこの点において自己矛盾をも生じている(注14)。
 ここで確認したいのはクラウスの論理における矛盾ではなく、一つは彼女が主張したように「リズム〜」が視覚的なものを支配するものとして存在すること、そしてもう一つはジェイの指摘する通り、それが時間的芸術である音楽との姻戚関係にあることである。クラウスが「リズム〜」と音楽との関係を否定するのに失敗したのは、それが事実であるからに他ならない。特に絵画や彫刻とは異なる時間的芸術である映像作品において、ましてやOPのように映像と音楽のコンプレックスという形態をとる場合には、この事実は明確に体現される。映像と音楽を「シンクロ」させることは、同じ時間的芸術である音楽により明確に現れる「リズム〜」によって映像の「リズム〜」を顕在化させるという作業なのである。
 視覚的な刺激は、ロジェ・カイヨワの提唱した四つの「遊び」の類型の中では<眩暈>に分類でき、本質的に快楽としての性質を持つ。そして視覚的な刺激は、対象が視覚的に変化する時に発生する。すなわちカットの切り替えや人物の大きな動作がそれであり、視覚的な刺激によって「リズム〜」を作り出し、反対に「リズム〜」によって視覚的な刺激を強調することが、OPにおける「シンクロ」の本質であると同時にOPがもたらす「映像的快感」の一要素として大きな位置を占めるものであることは間違いない。歯切れ良い音楽に「シンクロ」したOPは、観る者に快感を与える映像としてアニメ本編とは別の尺度において自ずから価値を持ち得、独立した一本のビデオクリップとしての性格を強めていくのである。  では実際のOPにおける楽曲との「シンクロ」を、「カードキャプターさくら」第三期(1999〜2000)のOPを例に見てみよう。ここで取り上げるのはOPの中盤、楽曲で言う「Aメロ」から「Bメロ」部分にあたる、このOPにおいてもっとも「シンクロ」が特徴的に現れている部分である。

《「カードキャプターさくら」第三期OP(抜粋)》
 歌詞「〜隠れてるはず 空に向かう木々のようにあなたを まっすぐ見つめてる」

 (目盛りは楽曲のリズムを、"○"は楽曲中の歌詞以外の「きっかけ」を、下線は「きっかけ」と
  映像のカット割りや要素の動作が「シンクロ」している箇所を、それぞれ示している。)


 この「さくら」第三期OPにおいて、曲の変則的なリズムに乗せてのカット割りは、異様とも言べきシンクロを見せる。例えば「隠れてるはず」に続く部分は、次のフレーズの頭ではなくそのワンテンポ前の「きっかけ」で1カット入れ込んであるのがポイント。単純にフレーズ単位で「シンクロ」させてしまうと、スムーズに繋がるが曲の特性が失われてしまう。そのため、Aメロでの流れを一度ぴたっと止めてからこのBメロ部分のシークエンスに入るようにしてあるのだ。Aメロ部分がノーカットで来ているだけに、その効果は絶大である。
 またカットチェンジそのものにも、一拍で区切る部分と一拍半の部分を混在させて変則的なリズムを刻む小技が見られる一方、「向かう」の部分では頷くアクションで丁寧に歌詞と「シンクロ」させるなど、複数のパターンをこのシークエンスのなかに凝縮しており大変に刺激的だ。「空に」「木々の」がそれぞれ裏拍から入るのに対して、次の「ように」「まっすぐ」が転調した上、表でリズムを踏むという、不思議な印象を与える構成になっているが、そのリズムを映像と見事に融合させた傑作である。

●「データベース消費」とオープニングアニメーション
 快感には刺激に応じてもたらされるという側面があることを先に確認したが、同じ刺激が繰り返されると人間はやがてそれを当たり前のこととして受け止め、慣れが生じてくる。一度慣れてしまえばもはやそれは刺激ではなくなり、人はさらなる刺激を求めはじめるのだ。そうしてより強い刺激が次々に求められてきた結果、音楽も映像も徐々に表現の激しさを増してきた。例えば70年代の楽曲と90年代の楽曲を比較すれば分かるように、最近の楽曲ほどテンポは速く「きっかけ」も目立つ。こうした楽曲の変化が映像のリズムに影響することはもちろん、刺激的な映像に対する欲求も作用して、「シンクロ」による映像的快感が重視される傾向が強まってきたことは言うまでもない。テンポが速まり「きっかけ」が増えた楽曲に合わせ、映像もより細かく「シンクロ」していくことになり、OPのビデオクリップとしての性格や密度がより高められていくのである。  楽曲との「シンクロ」をもっとも極端に追求した例が、一分半で87カットという驚異的な密度でカット割りが行われている「新世紀エヴァンゲリオン」のOPだ。「機動戦士ガンダム」が20カットであるのと比較して、実に4.35倍である。

《「機動戦士ガンダム」と「新世紀エヴァンゲリオン」OPにおけるカット割りの比較》
 (主題歌に対してどこでカットが切り替わるかを、歌詞との対比で表した。
  "/"はカットチェンジを、"○"は歌詞以外の「きっかけ」を、"//○"はひとつの「きっかけ」について二回の
  カットチェンジが行われていることをそれぞれ示す。その細密度の圧倒的な差は一目瞭然である。)

「機動戦士ガンダム」OPのカット割り
 「/燃え上がれ燃え上がれ燃え上がれガンダム /君よ/走れ
  /まだ怒りに燃える/闘志があるなら/巨大な敵を/討てよ/討てよ/討てよ
  /正義の怒りをぶつけろガンダム/機動戦士ガンダムガンダム
  /甦る/甦る/甦る/ガンダム/君よ/掴め
  /銀河へ向かって飛べよガンダム/機動戦士ガンダムガンダム/○」

「新世紀エヴァンゲリオン」OPのカット割り
 「/ざ/んこくな天使のように/少年よ神話になれ/○
  /蒼い風がいま胸のドアを叩いても私だけをただ見つめて微笑んでるあなた
  /そっとふれるものもとめることに夢中で運命さえまだ知らないいたいけなひと/み/○/○//○
  /だけといつか/気付くでしょう/その背中に/は/○/○/○
  /遙か未来めざすための羽根があること/○/○/○
  //ざ//ん/こくな/て/ん/し//の/テーゼ/○
  //ま//ど//べ/か/ら/や/が/て/と/び/た/つ/○/○/○/○
  //ほ//と/ば/しる/あ/つ/い/パ/トス/で//お//も///い/で/を/う/ら/ぎ/る/なら/○
  /この/宇宙を抱いて輝く/しょう/ね/ん/よ/神話になれ」

「機動戦士ガンダム」主題歌歌詞
 「燃え上がれ 燃え上がれ 燃え上がれガンダム 君よ 走れ
  まだ怒りに燃える闘志があるなら 巨大な敵を討てよ 討てよ 討てよ
  正義の怒りをぶつけろガンダム 機動戦士ガンダム ガンダム
  甦る 甦る 甦るガンダム 君よ 掴め
  銀河へ向かって飛べよガンダム 機動戦士ガンダム ガンダム」

「新世紀エヴァンゲリオン」主題歌歌詞
 「残酷な天使のように 少年よ神話になれ
  蒼い風がいま 胸のドアを叩いても 私だけをただ見つめて微笑んでるあなた
  そっとふれるもの もとめることに夢中で 運命さえまだ知らない いたいけな瞳
  だけといつか気付くでしょう その背中には 遙か未来めざすための羽根があること
  残酷な天使のテーゼ 窓辺からやがて飛び立つ
  ほとばしる熱いパトスで 思い出を裏切るなら
  この宇宙(そら)を抱いて輝く 少年よ神話になれ」

 さらにカットチェンジ以外の「きっかけ」に合わせた動きなどをカウントすれば、この差はさらに拡大する。もちろん使用楽曲の違いや演出意図などによる作品ごとの格差は存在するが、上記二作ほどではないにせよ少なからず同様の変化がOPの歴史において起きているのは間違いない。例えば「ガンダム」のOPに見られる「シンクロ」の最小単位は歌詞の一フレーズであるが、「エヴァ」では歌詞の一音に最大で三カットを割り当てるまでに細分化している。このことが意味するのは、映像や楽曲に極度に刺激が求められるとき、映像も楽曲もそれ自体としての意味を剥奪されるということである。一音ずつ区切られた歌詞はもはや文脈を持ち得ないのと同様、数フレーム単位でカットされる映像はその一つの「ビート」を映像的に表現するための素材としてしか機能していないのだ。そしてそれは、アニメ本編から切り離され単独で消費されるOPの在り方を象徴的するものである。同時にそこには、視覚的刺激としての映像の言語化できない率直な身体性の存在を見出しておく必要があるだろう。

 もっとも、「エヴァ」以降一時的に極度な「シンクロ」が流行したが、最近では度を超した刺激的表現はあまり見られない。「ポケットモンスター」(1997〜)本編で用いられた激しい点滅表現によって子供を中心とする多くの視聴者が意識障害を起こした事件(1997.12.16)も少なからず影響しているのだろうが、「エヴァ」が提示した一音に2〜3カットを割り当てる手法は、「シンクロ」による映像的リズムの創出においては限界に近く、飽和状態を経て新たな刺激の形態を模索する段階に移行したとも言えるだろう。先に例示した「カードキャプターさくら」第三期OPは、そうした流れの中にも位置づけられる表現である。
 世界を規定する<大きな物語>が失われた時代に、その代替物として「物語としての歴史=偽史」がサブカルチャーにも求められるのが「物語消費」という現象であるという大塚の主張については前述した。これに対し東浩紀は、90年代に入って<大きな物語>は、ポストモダンの世界観の中で育った世代にとってもはや、サブカルチャーとしても「捏造」する必要がなくなったと述べている(注15)。そして不在となった深層の<大きな物語>に代わって、作品を構成する要素の集合体としての「データベース」の存在を指摘し、作品を通じてもしくは直接その「データベース」にアクセスすることで記号的な各種の要素のみをひたすら消費していく「データベース消費」という新たなスタイルが生まれていると分析してみせた(注16)。
 この「データベース消費」を象徴する用語として東は、物語やストーリーとは無関係に特定のキャラクターの意匠に対して感情移入していく様を形容する用語である「キャラ萌え」を挙げ、「キャラ萌え」に象徴されるような「データベース消費」型の需要姿勢が広まるにつれて作品もそれに応じて変容しつつあると主張している。例えば「ガンダム」と「エヴァ」を比較して、「ガンダム」のファンの多くはひとつのガンダム世界、つまり架空の大きな物語に欲望を向けているのに対し、「エヴァ」のファンたちは最初から、二次創作的な過剰な読み込みやキャラ萌えの対象として、キャラクターのデザインや設定にばかり関心を集中させていたと述べ、しかも「エヴァ」は最初からそうした需要姿勢を容認する形で制作されていたと言うのである。
 東の主張がアニメーションの現状に対しどこまで有効であるのかは、彼が議論の対象としているのがいわゆる「オタク」すなわちマニア度の高い屈折した消費者像に限られているため、若干の疑問が残るところである。しかしながら、OPを作品本編とは無関係に単体で鑑賞する姿勢、あるいはビデオクリップ的なOPにおいて個々の映像にリズムを刻む素材として以上の意味が与えられないことなどは、この「データベース消費」の理論を応用して説明することが出来そうである。その観点においては、究極的に「シンクロ」の確度を追求した刺激的映像で一世を風靡した「エヴァ」を、東が「データベース消費」の原初的作品として例示していることは非常に興味深い。


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2002 SVE