アニメの快楽 -自立するオープニングアニメーションに見る「映像的快感」の正体-


 第四章:オープニングアニメーションと主題歌

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●主題歌の変遷とアニメビジネス
 第三章ではその刺激的な効果にのみ注目して音楽の作用を検証したが、OPに随伴する楽曲は一般に「主題歌」と称されている。「主題歌」としての楽曲は、OPにおいてどのような意味を持っているのだろうか。この章ではその「主題歌」の性格や役割について考えてみたいが、その前に主題歌の歴史的変遷をごく大まかにではあるが確認しておきたい。リズムを強調する刺激としての音楽がより刺激的な方向へと進化したことは既に述べたが、主題歌としての楽曲もまた歴史的に変化して来たのである。
 もう一度、「機動戦士ガンダム」と「新世紀エヴァンゲリオン」を例にとろう。「ガンダム」の歌詞を見てまず気付くのは、「ガンダム」という主役ロボットの名称が七回も繰り返されていることである。対する「エヴァ」では、「エヴァンゲリオン」という言葉が歌詞の中に登場することはない。その他の作品群を参照しても、例えば必殺技やロボットの名称を連呼するといった形で作品に言及する楽曲が、ある時期を境に作品と密接な関係を示さないポピュラー音楽に取って代わられるという現象を広く確認することが出来るのだ。その転換期における作品として、ポピュラー音楽の歌手である杏里が主題歌を歌った「キャッツ・アイ」(1983)が挙げられる。「キャッツ・アイ」の主題歌には「Cat's Eye」というフレーズが何度も登場するが、それは作品の主人公である三姉妹怪盗「キャッツ・アイ」を指し示す名称として歌われるのではなく、あくまでもポピュラー音楽としての文脈の中で特定のイメージを表象するものであった(付録資料2参照)。そしてこの「Cat's Eye」は、一般のベストテン番組でも取り上げられるほどの大ヒットを記録している。主題歌に見られるこうした変化は、実はアニメという分野の傾向がこの時期に大きく変化していったことをストレートに反映したものである。
 「おそ松くん」(1966)などの子供向け作品を中心とするアニメが「テレビマンガ」とも呼ばれていた時代から「マジンガーZ」(1972)に代表されるいわゆる「スーパーロボット」ものが隆盛期を迎える頃までは、ヒーローや主役ロボットなどが作品における特権的な「主題」であったことが主題歌にも表れている。そんな中、「宇宙戦艦ヤマト」を契機とするアニメブームを受けて登場した「ガンダム」が、それまで一般的だった単純な勧善懲悪の構図を廃し濃密なドラマを描くことでアニメというジャンルの枠を広げ、アニメ視聴者の年齢層を引き上げたことは周知の事実である。そして多様な表現が幅広く受け入れられるようになったアニメの世界に、人気マンガのアニメ化という形で80年代初頭から大量に流入してくるのが、当時ブームとなっていたラブコメ作品である。「キャッツ・アイ」はそうした多様化の流れを汲むものであった。作品が描くのが悪者を退治するヒーローのような単純な類型に当てはまらなくなった時、主題歌もまた多様化を迫られるのは当然である。かくしてアニメ主題歌のポピュラー音楽化、「タイアップ」という形でのポピュラー音楽の使用が一般的になっていき、主題歌と作品との関係は一層希薄なものとなっていく。
 アニメブームと前後して多様なアニメが広く流通するようになるにつれ、アニメ雑誌が数多く創刊されるなど、アニメの周辺ビジネスも次第に活気づいてくる。アニメというジャンルの可能性が期待を集める中、初のOVA「ダロス」(1983)が発売された。アニメ作品が初めて、最初から「購入」という極めて直接的な消費姿勢の対照である「商品」として存在する時代の到来である。OVAは現在に至るもジャンルとしては亜流であり続けているが、「ダロス」の発売はそれ以降拡大の一途を辿るアニメビジネスの本格的なスタートを象徴するような出来事であった。主となるアニメの視聴者層が拡大したことは、アニメファンの経済力・購買力の向上を意味する。あらゆる種類の関連商品が売り出され、そして消費されていった。そしてその中には主題歌のCDも含まれていたのである。
 バブル経済やカラオケブームに後押しされてかCDの売り上げが爆発的に増加する中、レコード会社がアニメ市場の有益性に本格的に注目するに至って、アニメ主題歌は新たな時代を迎える。アニメ主題歌に採用することで楽曲のCDを売る、ということを極めて戦略的に行った例としては、ソニー系列のアニメ制作会社SPEビジュアルワークス(現・SMEビジュアルワークス)とレコード会社ソニー・ミュージック・エンタテインメントによる「るろうに剣心」(1995)が有名だ。この作品でSPEVWとSMEは、女性視聴者をターゲットにした作品作りで人気を集めるとともに、次々と新しい「主題歌」を投入することでヒットを連発する。さらに「頭文字D」(1998)では、avexが同社の主力商品であるダンス音楽を主題歌のみならず作品中でも多数使用することによってアニメ視聴者にCDを売り込むというシステムが確立されている。

●主題歌の役割と物語のリズム
 ミシェル・シオンは「音楽は時間/空間装置である」と述べ、時に時間的・空間的な一貫性を欠く映画の場面に統制をもたらすと指摘した(注17)。極度に断片化した素材によって構成されるアニメのOPは、なおのことそうした「装置」を必要とする。第二章ではOPの物語性を、第三章ではOPのビデオクリップ性を、それぞれ敢えて単独で検証した。しかし実際には、物語の要素を内包しているからといってそれだけで物語になり得るわけではなく、映像的刺激をリズムの重視によって追求しているからといって映像の意味が作品世界から完全に乖離してしまっているわけでもない。OPとは実際にはその両方の側面を兼ね備えた映像であり、だからこそ一つの独立した映像としての鑑賞に耐えうるのだ。そこでその二つの側面をつなぎOPを一つにまとめ上げているのが、「主題歌」としての音楽なのである。シオンは映画が音楽を利用する理由を「音楽の極めて直截的な力、その極めて凡庸な効果、その極めて単純明解な言語」にある(注18)とも述べ、そうした音楽が「物語や見せ場の背後で、映画を展開させる力学と通じ合っている」(注19)のではないかと問う。この「力学」こそが断片化した映像の羅列でしかないOPを貫いて一つの物語を語りうる存在に仕立てているものであり、主題歌の最大の機能はそこにある。物語を展開し推進していくことを重要視するのはハリウッド中心主義的との批判を免れ得ないが、ハリウッド映画と同様に商業的な商品である物語ソフトとしてのテレビアニメを説明する文脈としては妥当と言えよう。
 では音楽が持つ「凡庸な効果」「単純明快な言語」とは何か。もっとも単純に考えれば、曲のクライマックスが映像もしくは物語のクライマックスを演出する、というような効果がそれである。ポピュラー音楽へと傾倒していく過程で、アニメ主題歌は「Aメロ→Bメロ→サビ」というポピュラー音楽の基本フォーマットを踏襲していくことになる。ポピュラー音楽の流れの中でこのフォーマットがどのように確立したかを検証することは本書の目的ではないので割愛するが、少なくとも作品に直接言及するタイプの主題歌にこの形式が共通のものであると明確に確認することは難しい。「言及型」の主題歌では、楽曲の構成上のクライマックスではなく、歌詞の中で必殺技や主役ロボットの名称が叫ばれる部分に力点が置かれるあまり、楽曲のテンションが散漫になってしまっていることが多いのである。これに対し「ABサビ型」の主題歌が「サビ」でクライマックスを迎えることは一目瞭然で、映像に伴わせる時にはこの「Aメロ→Bメロ→サビ」という楽曲の流れの中に各ショットを位置づけ、視聴者のテンションを効率的に高めていくことが可能なのだ。楽曲の「リズム・ビート・パルス」に代わって、そのメロディーがここでは重要になってくる。
 「言及型」主題歌は、作品の主題に言及することによって映像と対等な立場を確保していた。だからこそ楽曲として散漫であっても、「主題」によって映像と結びつき、OPを統括することが出来たのである。しかしそれは映像作品としてOPを考える場合、主題が単純かつワンパターンである場合にしか成立しない。主題を語るという点においてはその役割は後退したかもしれないが、映像作品としてのOPの在り方を強化しているのはむしろ主題から切り離された主題歌の方である。なぜなら「Aメロ→Bメロ→サビ」の流れは、単に効果的なクライマックスをもたらすだけでなく、「物語のリズム」をそこに創出するからである。
 「物語のリズム」とは例えば、「起承転結」のリズムであり、歌舞伎で言う「序破急」のリズムであり、物語を構成するにあたって考慮すべき一つの規範として古くから認められてきたものだ。OPが一つの物語として成立するならば、そこに「起承転結」や「序破急」のリズムが見出せるはずである。それがなければ、OPはやはりただの断片の寄せ集めに過ぎないということになってしまう。ここでもう一度、先に示した「新世紀エヴァンゲリオン」のカット割りの構造を参照したい。カットチェンジがOPの後半に集中していることが分かるが、これは当然、楽曲の「サビ」に合わせる形で映像もクライマックスを演出しているからである。少し目を転じれば、サビの前のフレーズでもカット割りの回数がやや増えている。そしてそれ以前の部分ではほとんどない。これが「序破急」のリズムである。
 「序破急」は「序・破・急」の三つをさらに分解した「序・破の序・破の破・破の急・急」の五つのステージから成るとされる。「起承転結」との対比では、「起承」が「序」に、「承転」が「破」に、「転結」が「急」に当たる。これを先の「ABサビ」と比較してみよう。楽曲にはイントロとアウトロが存在するので実際には「イントロ・ABサビ・アウトロ」となるが、そうすればすぐさま「イントロ=序・破の序=Aメロ・破の破=Bメロ・破の急=サビ・急=アウトロ」という対照関係をそこに見出せるだろう。もちろんここで実証を試みるのはアニメと歌舞伎との関係ではない。「序破急」は極めて日本的な概念であるが、欧米の物語様式において一般的とされるクライマックスを頂点とした三部構成についても、それぞれを厳密に比較すれば齟齬を生じるだろうが、大筋において多くの共通点を見出せることは確かである。例えばこのリズムで「世界の提示・主人公の提示・主人公の周辺要素(サブキャラクター)の提示・主題的見せ場(バトルシーン)・全員集合」と要素を配置していけば、立派なOPが出来上がると同時に、一つの物語が浮かび上がってくるだろう。
 主題を直接語ることを放棄した主題歌は、自らが作り出すこの「物語のリズム」を利用して間接的に主題を提示してみせる。すなわち、「サビ」部分に配置された要素が主題として強調されるのだ。逆に言えば、主題は「サビ」に配置することでそれと認識されることになる。例えば第二章で検証した「ONE PIECE」のOPでは、中盤に派手なバトルシーンがあるものの、サビで描かれるのは船の上に勢揃いした主人公らと海賊旗など、航海を続ける主人公らの終わりなき日常である。それによってこの作品の主題がバトルではなく「ONE PIECE」を求めての旅の過程にあることが分かるわけだ。
 逆に、ここで配置する要素を無思慮に選択してしまうと、作品の方向性や主題が全く把握できなくなってしまう。主題が明確に見て取れることが作品の文法を提示する媒体としてのOPでは望ましいのはもちろん、物語の様式に沿って要素が配置されていることで、視聴者は自分が何を見せられているのかを把握しやすい。その把握しやすさが、良くできたOPを単独の作品として認識させることに繋がってもいることは改めて言うまでもないだろう。


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2002 SVE