アニメの快楽 -自立するオープニングアニメーションに見る「映像的快感」の正体-


 第五章:視覚のメカニズムとオープニングアニメーション

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●視覚のメカニズムと映像的快感
 ここまで、物語の提示による充足感やリズミカルな刺激による快感、主題歌によるテンションのコントロールなどOPの諸相を順に見てきたが、最も重要な視点を後回しにしてきた。すなわち、アニメーションとしてのOPである。アニメーションそれ自体が、快楽的な映像を提供していなければ、「映像的快感」と言うことは当然ながら出来ない。この章ではいよいよその核心に迫っていくことにしよう。
 「映像的快感」を生む要素の一つは、映像の本質である「居ながらにして観る」ことによるものだ。押井守がアイロニーを込めて表現した(注20)ように、ただ座ったままで遠く離れた場所の光景を目の当たりにすることが出来る。本当ならば見ることの出来ないはずのものを見ることが出来る。それが映像というメディアの特性である。物事があたかもその場で起こっているかのように再現してみせる映像の様を指す「臨場感」という言葉があるが、本質的には全ての映像は「臨場感」を伴っているのだ。「臨場感」が得られるとき、われわれは映像の中に引きこまれ、あたかもその場にいて自分の眼で見ているかのような錯覚を味わうが、本来ただ座っているだけでは得られない刺激が向こうからやってくるそれは、多分に幻惑的な体験であり快楽を誘う。臨場感とはキャラクターや物語に現実感をもたらす要素でもあった。そこで問題となるのが臨場感の度合いである。いかにして臨場感はより効率的に演出することができるのだろうか。アニメーションという表現形式において常に問題となるのは、そのことであった。
 まずは我々の視覚のメカニズムについて把握しておかなくてはならない。聖徳栄養短期大学解剖生理学研究室の坂田英夫によれば(注21)、我々が認識する視覚イメージは、網膜に投射された「網膜像」ではなく、脳の中でそれに様々な処理が施され再構成された「知覚像」と呼ばれるものである。そして「知覚像」では「網膜像」に対して物体の大きさが強調されているのだ。例えば遠くから歩いてくる人の見かけの大きさが変化しても、その人が大きくなっているのではなく同じ大きさの人が近づいてきたと我々は正しく認識できる。これを「大きさの恒常性」と呼ぶ。したがって、「網膜像」に近い遠近法に忠実なイメージより、遠近法を意図的に無視した「知覚像」を描くことで、臨場感は格段に増す。
 さらに坂田は、「オプティカル・フロー」「運動視差」と言った現象を、臨場感を演出する効果として挙げている。「オプティカル・フロー」とは、真っ直ぐ突き進んでいる時、周囲の光景が放射状の動きとして認識される現象のことを指す。また「運動視差」とは、視点が移動する時に起こる物体の見え方の変化、例えば電車に乗っている時に、遠くの建物よりも近くの建物の方が早く過ぎ去って見えたりする現象のことである。坂田は、こうした効果を用いることで運動状態や奥行きが認知され「臨場感」がもたらされるのは、脳内の「多感覚ニューロン」が刺激されるためであると指摘している。多感覚ニューロンとは、特定の刺激にのみ反応するニューロンのことである。坂田は猿を椅子に座らせて回転させるという実験により、回転運動のみに反応するニューロンが存在することを確認した。そしてこのニューロンは、実験を暗闇で行った場合、つまり視覚情報がなくても反応し、また猿は回転させずに回転する物体を見せた場合にも反応したという。つまり、三半規管からの刺激と視覚からの刺激、どちらか一方が与えられることで、等しく回転運動に対する反応が脳内では起きるのである。このことは、視覚刺激のみによっても、自分が動いているかのように錯覚してしまうことが十分にあることを示している。では「知覚像」や「オプティカル・フロー」「運動視差」が臨場感を生む過程で具体的に表現しているものとは、一体なんなのだろうか。それは、物体の立体感も含めた「空間」である。
 アニメーション表現の本質は、動かないものを動かして見せることにある。本来動かないはずの一枚の絵が、何枚も連続することで一つの動きを描き出すこと、それがアニメーションの魅力である。画面の中で何かが動くあらゆる瞬間が、本来静止画からは得られない刺激の連続であり、快感である。しかしアニメは、所詮作り物であり、それをどう現実らしく見せていくかに、アニメ作家たちは苦心した。例えば実写映画と同様に24コマ/秒で動きを作画するフルアニメーションなどは、アニメを現実に近づけるための取り組みであった。本来無駄の多い人間の動きを自然にアニメで再現することは極めて難しい。そのためにライブアクションやロトスコープといった、人間の動きをそのままアニメでトレースするような手法が生み出されていったが、それは予算と時間のある劇場大作にのみ許された贅沢であった。
 一方、手塚治虫以来のリミテッドアニメーションの制約から抜け出せないままにいたテレビアニメは、1970年代、金田伊功・板野一郎という二大アニメーターの登場で新時代を迎える。日本のアニメ表現の歴史を参照すれば、もっともおおざっぱな概略においてもこの二人の名前が挙がらないことはない。そしてこの二人が行ったのが、テレビアニメにおける存分な「空間」の表現と、そのための時に極端なデフォルメによる作画であった。金田の作画は、キャラクターの大胆な動きとポージングに、「板野サーカス」とも呼ばれる板野の作画は、ミサイルや飛行機のダイナミックな動きに特徴がある。ここに誕生したリミテッドアニメーション独自の動きの美学と空間の表現は、「気持ちのいいアニメ」とされ、中でも金田作画の頂点とされているのが、「銀河旋風ブライガー」のOPであることは先に述べた。ではその「ブライガー」のOPから、アニメ表現の実例をいくつか見てみることにしよう。

《「銀河旋風ブライガー」OPに見るアニメ表現》

@隕石群を、手前・中・奥の三つのレイヤーに分けて描き、移動速度を変えることで「運動視差」を表現、画面に奥行きを演出している。

A極端なポーズをとりながら画面奥へととんでいくキャラクターたち。この独特の人物描写が金田作画の特徴。遠近感を必要以上に強調することで画面の奥行きを表現するために生まれた手法がその本来の目的を超えて様式化したもので、「知覚像」以上の強烈なインパクトがある。

Bハチ型の飛行ロボットの群が、縦横無尽に飛び回るシーン。ダイナミックな動きの表現は金田作画ならではのものだが、ここでも画面の一番手前を横切るもの、奥を移動するものなどの対比によって遠近感が生まれている。

C視点が三次元的に移動するシーン。このような動きを3DCGを使わずに表現するには確かな技術力が必要である。「オプティカル・フロー」を強調するような流線が重ねられ、躍動感のある映像に仕上がっている。

Dロボットも異様なまでのパースを効かせて描かれるのが金田流。「知覚像」とは逆に遠近法を誇張することで空間のダイナミズムを表現したものである。動きも要点を押さえたメリハリのある構成で、動きの気持ちよさを追求している。

 ところで、リミテッドアニメーションならではの動きを解するには、アニメについての基礎知識が必要になる。つまり、紙に描かれた絵である、という事実を念頭において見なければ、いかにその動きが技巧に富んだものであるかを理解することはできない。例えそれが純粋に我々の視覚のメカニズムに訴えかける映像であっても、それがアニメである以上、アニメとしてそれを捉える視点は当然存在する。「臨場感」と、制作過程への視点は、矛盾する。だが我々はその二つの視点を共存させることができるのだ。快楽には、忘我的なものと自覚的なものの二つのフェイズが存在する(注22)。小説を読む時に物語に没入しつつ文体の妙を味わうように、アニメの鑑賞においても我々は視覚的な刺激に身を任せつつ、その刺激を生み出す表現や技術にも目を向けるのである。

●アニメ表現の行方
 ここ数年で、テレビアニメにもデジタル技術が多様されるようになってきた。デジタル技術はアニメに何をもたらすのだろうか。実はその最大の功績を「臨場感」に見ることが出来るのである。例えば「オプティカル・フロー」や「運動視差」などは、視点が動くにつれて物体の見え方がどう変化するかを忠実に再現しなければ表現できない。従来これはアニメーターにとっては大変な労力であり、また高度な空間把握能力を必要とされるため、なかなかテレビアニメの表現としては定着しづらかった。だからこそ金田や板野の取り組みは大きなインパクトを持ったのであり、また金田や板野のような天才と呼ばれるようなアニメーターでなければ不可能な手法でもあった。ところがデジタル技術を使えば、三次元的な表現はいとも簡単に作り出せる。カメラの動きを設定すればその通りの映像が作り出せるのである。カメラの動きを想定し、物体の方を動かすことで視点の動きを表現していた頃と比べれば、省力化という観点から見れば格段の進化だ。背景やメカニックを3DCGで制作し2Dのキャラクターと合成したような例は次第に増えつつある。
 しかしそこで一つの問題も生じてくる。それが「知覚像」と「網膜像」の違いである。CGでは厳密な位置計算を行うため、「網膜像」的な映像しか作り出せない。アニメーターの感性で「知覚像」による動きを描いたものと比較すると動きのダイナミズムが大幅にそがれてしまうのだ。そこでアニメで3Dを使う場合、意図的に大きさを狂わせるような工夫が必要になる。デジタル技術が普及しようともアナログ処理なしには気持ちのいい映像が作れない。それは「気持ちのよさ」が多分に感覚的なものであり、コンピュータが計算することの出来ない要素だからに他ならないが、同時にアニメ表現の限界をも示すものである。アニメーターは様々な技巧を凝らして臨場感あふれる「気持ちのいい」アニメーションを生み出してきたが、その行き着く先はどこなのだろうか。
 ベテランアニメーター高畑勲は西洋美術の進歩の歴史を例に引き、初めはごく素朴であったものが、既存の表現をそれを超えるためにより過剰な方向へと向かい、行き詰まったところで今度はもう一度同じことを繰り返すのだ、と述べて暗にアニメ表現の行く末を予言している(注23)。金田や板野によってリミテッドアニメーションの表現は新たな可能性を得た。そして3DCGなどが当たり前のようにアニメに持ち込まれ、さらなる表現過多の時代を迎えていると言えよう。次々と表現は進歩していく。だが、アニメの映像は所詮虚構である。逆に、虚構だからこそ可能な表現のために、アニメ的な動きの表現や空間の演出が生み出されてきた。それがデジタル技術によって一つの頂点に達したとき、あるいはデジタル技術を用いても熟練アニメーターの作る映像には敵わないとすれば既に一つの頂点に達していると言えるが、アニメ表現はどこへ向かっていくのだろうか。情報量では実写に敵わないが、実写を志向することはアニメの本質ではない。もう一度、「アトム」のような最低限のリミテッドアニメへ戻っていくしかないのだろうか。
 「フルーツバスケット」(2001)のOPは、全編が静止画で構成されている。ゆったりとしたボーカルにのせて、静的なイメージのみで作品世界を表現していく。物語の各要素を盛り込み、音楽とのシンクロに情熱を傾け、絶妙な空間表現の中にキャラクターを描いてみせる、それがOPが一つの作品として成立する過程で歩んできた道のりであった。しかしOPの映像はいま再び、作品のタイトル・クレジットムービーという原点に戻るのかも知れない。だが映像的快感を放棄して原点に戻ったOPに、刺激や快感に慣れた我々は、果たして満足できるのだろうか。


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2002 SVE