アニメの快楽 -自立するオープニングアニメーションに見る「映像的快感」の正体-


 終章:オープニングアニメーションに見る「映像的快感」の正体

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 宮崎駿監督作品「千と千尋の神隠し」が、日本における映画興行成績の記録を塗りかえたというニュースは、まだ記憶に新しい。「千と千尋」以前の記録保持作品がハリウッド大作「タイタニック」であったという事実を考えれば、日本の映像作品として実写映画は既にアニメの競合相手にすらなり得ないことが、はっきりと証明されてしまったと言えよう。宮崎監督の前作「もののけ姫」が日本映画の記録を打ち立てた時、日本アカデミー賞はようやく「作品賞にアニメーションを含めてもよい」とする規定を追加したと言われるが、完全に遅きに失した感がある(注24)。アニメ映画を映画として認めてこなかった日本映画界の思惑とは裏腹に、少なくとも商業ベースにおいて、アニメは既に日本の文化産業の中核をなすものとしての存在を確立している。押井守監督の「攻殻機動隊」が全米ビデオチャートのトップに輝いたことは、日本のアニメの「世界進出」を象徴する歴史的な出来事として一つの伝説にすらなっているのだ。ハリウッド作品を記録の上で凌ぎ、世界進出を果たしつつある日本のアニメ作品。翻って国内のテレビアニメに目を向ければ、先に触れたように膨大な数の作品が次々と生まれそして消費されている。なぜここまで、アニメは求められそしてその求めに応じてきたのだろうか。「映像的快感」への探求は、その問いに対する一つの回答である。
 本書で一貫して「快感」と表現してきたものを、ロラン・バルトは「快楽(満足・快感・充実)」と「悦楽(失神・衝撃・忘我)」の二つのフェイズに分けて論じているが、両者は時に重なりまた時に対立するとも述べている(注25)。そして「快楽」及び「悦楽」とは実のところ一体何であるのかを最後まで具体的に定義・立証しないままに、バルトは彼の感じる「快楽」についてひたすらに書き綴っている。このことは「快感」あるいは「快楽/悦楽」と称されるものを明確に言語化しようという試みの不可能性を意味する。バルトが結局のところ個人的な体験・認識としてしか「快感」を語り得なかったように、本書においても「映像的快感」の実像を子細に描写することは叶わないのかも知れない。しかしながら、本来付随物でしかなかったOPという映像に価値が見出される過程を複数の視点から検証してきた中で、多少なりともその「正体」に近づくことは出来たのではないだろうか。
 確かに、いかに事実を積み上げても「快感」の具体的な姿は見えてこない。にもかかわらず我々がそれを求め続けるのは、我々自身の実感としてその「快感」が確かに存在するからだ。冒頭でも述べた通り、自立するOPの諸相を明らかにすることによって浮かび上がってくるのは、快感のメカニズムであると同時に、我々の欲求の形でもある。では我々が求めているものとは一体何なのか。それは実は、物語でも刺激でもなく、むしろ「快感」そのものなのではないだろうか。あるいは、快感への飽くなき欲求それ自体がもはやある種の「快感」であるようにさえ思われる。一編のアニメや実写映像と向き合う時、我々は求めながら、既にそれを得ているのではないだろうか。
 そう、「映像的快感」、それは確かに、ここにあるのだ。


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2002 SVE